りんごの木を植える。

高校の友だちが毎日更新してるので、ぼくも続けてみようと思います。

2022/12/29 落ち着きと虚無感と優しさ

自分なりに深く考えてつもりでも、人に伝えようとするとなかなか言葉がまとまらない。やっと紡ぎ出した言葉がとてもありきたりで、なんて浅い考えなのかと少し失望する。聞いている相手はとても優しい人で、ありがちな言葉や稚拙な自己表現に理解を示しつつ、やっぱりどうもしっくりこないような表情でこちらを見ている。

自分でももう少し難しく最もらしい言葉で表現しようとするけど、なかなか次の言葉が出てこない。自分の気持ちを表現することの恥ずかしさや、思いの外自分の思考の浅さを思い知っての恥ずかしさが入り混じって、なんとか言葉を表現しようとすると声が低く震え消え入りそうだ。だからなんとか音を出そうとして、余計にふらふらしたような自信のない声が出てくる。そうして頑張って出した言葉もまた、使い古された薄っぺらい言葉ばかり。あげく自分がどれだけすごいのかを滔々と話して、それに満足していないことを表明することで、自分はもっとすごい人間だと言おうとしている。浅ましい自分にこれまた失望し、空っぽな自分に絶望する。

そんなことをいつもいつもいつもいつも繰り返す。こうして何かしないととか、中身を鍛えないとと思うものの、これまた三日坊主で終わる。

空っぽな自分とは、とても似つかわしい表現。言い得て妙。的を射ている。まさにぴったり。

 

今日一つ気づけたことは、自分は辛いのかもしれないということ。人と分かりあうこともなく、深い人間関係を築けない。すぐに人間関係をリセットして忘れ去る。世間一般の評価軸に自分を当てはめ、自分がないから、空っぽだから、外からの評価や他人の目線にぶつかると体の中で響き渡ってとてつもなく辛い。しんどくなる。これは空っぽだからこそ、よくよく響くのだと思う。

世間的には、よくやっている。そんなことを、誰かから認めてもらいたいと思っている。賞賛されたい。でもひけらかしたくない。ヒーローや主役になって、人々の記憶に躍り出たい。でも自分から行きたくない。そんなプライドばかり高くなって、自己愛が肥大化して、それでいて中身の無い伽藍洞のよう。

 

中身がないことに気付けた。それは正直また自分を卑下する気持ちになって、失望して、どうしたら良いのか分からないような、絶望感さえ生まれてる。

 

きっとまた鬱らしくなる。日々楽しみもなく、人とも関わらず、家族とも触れ合わず、恋人にも本心や心、悩みや幸せを打ち明けられない。その内鬱になるような生活。

 

取り敢えず生きるなら、食べて寝て適当に性欲を満たし、そこそこの金を稼いでいればいい。それで生き物としては生きていける。でもどうしてもそこに行きつかず、悩むのか。生きることは単純なはずだ。生きるだけなら。大きな夢や目標など持たなくても生きていける。他人の評価で生きる必要もない。人から見てすごい人である必要はない。世間一般で言われるような成功すら必要ない。それこそ吉良吉影のように、平穏な日々を送っていればなにも問題ない。問題なく、ただ平穏に生き、老い、死ぬ。それだけ。

 

32歳になって、もうじき、あと3ヶ月で33歳になる。年齢にワケもなく意味づけをして、自分でつけた意味に勝手に傷付く。

どう考えても幼い。未熟。稚拙。白痴で思慮の浅い、ものを知らない。いくつも自分を卑下する言葉が湧き出てくる。でもそんな言葉が、自分が付けた年齢の意味と相俟って迫ってくる。苦しい。勝手に苦しい。

 

感情に浸っている自分に満足しているようで、そんなことを考えてまた落ち込む。愚か過ぎる。クソ。

キャリアに悩み、生きる意味に悩み、その答えを知ろうとすることが生きることなら、それはそれでクソ。

 

そうこう考えていることの行き着く先が分からない。何を求めているのか。何がわかれば、何がどう変わるのか。

 

こうして悩んでいることが無駄なのか。正面から向き合うことが大事なのか。

 

よく分からない。正解もない。