りんごの木を植える。

高校の友だちが毎日更新してるので、ぼくも続けてみようと思います。

雑記

歴史的な円安が話題である。数日前にはおよそ半世紀ぶりとなる1ドル160円台にまで下落して、経済界のみならず一般市民までもが危機感を煽っている。

10年近く前には90円台という円高にあり、ここ数十年で大きく乱高下した形である。

では円高であろうと円安であろうと、市民の行動が大きく変わることは今までになかった。

今回もあまり市民生活に大きな影響はないのではと思わなくもない。しかし本当にそうだろうか。

 

安倍晋三氏が首相に就任して以来、一貫して大規模な金融緩和を行なってきた。資本家に現預金や金融資産が貯まっていく一方で、実体経済を構成する市民の生活は一向に上向かなかった。雇用統計の改善した数値の実態は非正規雇用が大部分を占め、実質賃金は下落し続け、物価も不気味なほど上がらなかった。

 

そこにきて、日本国内の社会や政治における歪な構造が露わになるとともに、宰相は辞職し襲撃され命を落とす。先立ってのコロナ禍の異様な空気感により社会は暗黒と化す。またロシアによるウクライナ侵攻の長期化やハマスによるテロ及びその報復による大規模な戦争。様々な外的な要因が複合的に絡み合い各国をインフレが襲う中で、未だ日本社会はその影響を無視し続け、我知らず事なかれと言わんばかりに変わらずにいる。

 

ビジネス現場にいると、ビジネスの中核をなす役職者の危機感は、部門にこそよれ、日々大きくなっている。一方で、現場レベルの人たちは変わらずにいることを強く望んでいる。それは現場レベルの人たちが大多数の国民感情の代表的な存在であることからも理解できる。インフレや規制緩和、技術革新などには興味を示さず、ただ現状を漫然と受け入れ安住するような心の持ち様がある様にも思える。

しかしその結果として、大企業を中心として大規模なリストラや企業構造改革が断行され、希望退職者や子会社化によるコストカットがなされ始めた。

ここに企業が置かれた板挟みの状況も伺える。経営として利益を上げながら社会的な責任は果たさなくてはならない。しかしこの社会が安いものに執着して、信用や社会にとっての責任などお構いなしに大量消費を行おうとするようでは、容易に製品やサービスへの価格転換はできない。消費者側にも生産者側にも、インフレを受け入れるインセンティブはない。

 

 

浅草に近いところに住んでいると、日々様々な国の観光客に出くわす。欧米人や中華圏の人間だけでなく、10年前には見かけなかった東南アジア人も多い。全国の観光地ではオーバーツーリズムが問題となっている。

リゾート地は外国資本に買い漁られ、開発される。日本の水源近くには半導体工場が立ち始め、地元の自治体も嬉々として受け入れる。山林には太陽光パネルが並び、土砂災害や自然環境破壊を進める。

地域の人間たちや国の開発に携わる人間たちはこれをみてどう思っているのか。かつての宰相が美しい国と表現していた日本は、こうして失われていくのだろうか。

こうした外国資本の開発が、歴史的な円安を契機としていると見る意見は多いと思う。ただ、本当にそれだけなのか。

たかだか為替相場でここまで変わることか。日本に投資する資本の動機を調べてみると、それだけではないことがわかるはずだ。

 

仮説として、為替相場の利点。物価の安さ。治安の良さ。

 

外国資本の全てが悪ではない。社会的責任ある経営を模索し実践する資本もあるだろう。

ただ、そこに対しても一貫したガバナンスを効かせる必要がある。

それは、この国の何を大切にし、何を守るのか、後世に何を残すのか、この国の世界における立ち位置はどうあるべきか、といった国の在り方に軸足を置かなくてはいけない。

それは今を起点としてこれからの未来を考えるだけでは足りず、過去の出来事の総括や清算も同じ様に必要なことだと思う。

 

それには国や企業のリーダーが一身独立するとと共に、一市民に於いても我が身を振り返る必要がある。

 

ありのままでいい、逃げてもいい、がんばらなくてもいい。そんな甘い言葉が蔓延っている様では、本当に大切な人は守れない。