りんごの木を植える。

高校の友だちが毎日更新してるので、ぼくも続けてみようと思います。

2022/01/10 xx

この2週間を無為に過ごしたとは思っていない。ただもっと充実できたとは思う。

ある社会学者が、「”元気でさえいてくれること”に意味はない。人の価値はどう生きるかで決まる」みたいなことを言っていた。

ある事業家は、「自分が生きている意味とは、自分がいる世界と、いなかった世界の差分だ」と言っていた。


西洋哲学はwhatを探求するけれど、そこに人生の本質的な意味はない。突き詰めれば人間など、所詮は宇宙の塵が集まってできた物質の塊だから、全てはたまたまの産物だ。たしかに物質的な肉体はたまたまでも、精神はどこからくるの?と言われるかもしれないが、これもなんということはない。外的な刺激に対する反応である「感覚」と、種の繁栄に適した社会性を備えるための「感情」や「理性」のまとまりを、精神と呼ぶ程度でしかない。

それでも、だったら人生に意味なんてないし、生きていても仕方ないとか言ってニヒリズムに走る必要はない。人生に本質的な意味がないことと、自分がどう生きるのか?という問いは全くの別物だ。

例えばこうやってブログを書いたり、人の書いたブログを読んだり、あるいはTwitterとか YouTubeを見たりすることに、本質的な意味なんてない。だって、それらがなくても生きていけるのだから。それでも人はブログを書いて想いを綴ったり、動画を見て楽しんだりする。大多数の人にとって、何かに意味を求めることなんてそれこそ意味をなさない。


ただ、間接的なプロセスを通じて、意味あるものにしていくことはできるとおもう。それは、本質的な意味を探りあてることではなく、意味ないところに意味を作り上げていく作業だ。そしてそれは、自分の外の環境に働きかけて、自分と繋がりを作ることで、間接的に作り上げていくことだと思う。こういう意味を作ろう、ではなく、何かの作業を進めていく中で、朧げに感じ、次第にし浮き彫りになっていくのだろうと思う。


人生にとっては、どう生きるか?というhowの方がよっぽど大事だと思う。

いつかそんな事を、もっと具体的に書いてまとめたいなと思っている。