りんごの木を植える。

高校の友だちが毎日更新してるので、ぼくも続けてみようと思います。

2022/03/05 「〇〇をする」よりも、「〇〇をしない」の方が強制力がある。

これは自分だけかもしれないが、「〇〇する」よりも「〇〇しない」という表現の方が、自分に対する強制力が働く気がする。最近というか、ついさっき思った。

思えば、どちらかと言うと「〇〇するな!」と言われることが多かった気がする。それに対して素直に従ってきた気もする。言われる側としては、従えばいいだけなので、禁止された事はしない。それに準じたり類似するようなこともしないだけでいい。こうして目出たく、指示待ち人間が育った気もする。

そうであれば、捉え方や行動原理を変えればいいだけの話なので、自分で考えることに重きを置くなら、「〇〇しない」というような禁止ではなく、「〇〇する」というような、自発的な表現を選ぶようにすればよい。
また何か自分の行動や習慣を変えたいなら、「〇〇しない」という禁止の表現で誘導した方が楽に行動できる気がする。
問題は、「〇〇」の部分に何を入れるかだろう。細かすぎると限定的な表現になり、「〇〇」がいくらあっても足りない。大きすぎても具体性が欠けてしまい、知らないうちに禁止すべきことをやっている可能性もある。やはり、目的を明確にした上で、設定すべきだ。

例えば勉強に集中したいと思っている人が、「携帯をいじらない」というように表現しても、他にテレビを観て時間を浪費するわけだ。この場合、「勉強以外で時間を浪費しない」という表現をするのかもしれないが、これではただのトートロジーの様である。また、じゃあ家族や友人との会話は不要か?という様な問いにも直面する。

結局は何が必要で、何が不要かを判断しないといけない。そのためにも目的が明確である必要があって、それに沿った行動をするべきという、なんとも驚きのない、至極当たり前の結論に達した。

とはいえ、実際大切なのは、本当にその行動を起こすことだ。プロシュート兄貴とは反対のことを言う様だが、まさに行動に起こさない人の方が、世の中には多い。口で偉そうなことを言ったり変に賢く振る舞おうとして中身のないことを呟く人間に限って、行動まで改めようとしていないことは、世の中の常だと思う。

間違いなく言える事は、ペッシはとてつもない男前である。