群青を聴きながら。
別に共感できるとか、なにか熱い展開があるとか、そういうのとはちょっと違う。ただ、好きなことにのめり込めることが素晴らしいとは思う。
イチローが引退会見をした時に、なにか好きなことを見つけることの大切さを説いていた。それはその通りだし、そこに生き方の本質があるのだと思う。
生き方というか、生きやすさというか。
本質というか、ヒントというか。
自分の好きなことがなにか、明確に意識できるようになるには、とにかく何事に対しても「ちょっとやってみる」ことが大事だと思う。取り敢えず、それに触れてみないとなにも分からない。
でも、ちょっとやってみてすぐ嫌になることもある。結構続けていたのに、嫌になることもある。その理由は様々で、本質的には好きなことに関係のないことだったりする。人間関係とか。それこそ周りにいる人が言ったひと言とか。
狂気的な芸術家は、きっとそういう思いを全て、作品に込めるのだとおもう。そうした作品が、世間で評価される事も多いように思う。
凡人たる僕のようなやつは、多分嫌なことがあったらすぐに弱音を吐いて、もう嫌だとかやりたくないとか、好きだと思っていた対象から逃げ出す。
それでいいとも思う。それは他に選択肢を持っている恵まれた人間である証拠だから。
一方で他に選択肢のない人達は、その対象に向き合うしかない。そうでしか、周りや世間と交われない。そうでしか、自分を表現できない。
その好きな対象にのめり込めることは、それは世間的に見れば幸福に見えがちだが、本当は不幸な事なのかもしれない。そうした中で生まれてくるのが、世間的な作品であるならば、皮肉なことだと思う。
別に憐れむつもりもないが、例えばルネサンス期などは、裕福な人間が芸術家を囲っていたわけだから、歴史的にみても、高名な芸術家には他の選択肢が無かった人も多かったのではないだろうか。
翻っての自分か。
所謂一億総中流のなかの一つの家庭に産まれて、行動するのが億劫で口数も少なく、それほど取り柄もない、見た目と雰囲気で生きてきた自分は、自分は何を残すのだろう。
自分が世界の中ではとてつもなく恵まれていて、過去多くの同胞の犠牲の上に生かされていることもなんとなく分かっている。雰囲気で。
流行りの娯楽には手を出しつつ、なんとなく生きてきて、もうすぐ32年が経つ。
ここまでのおれの人生ってなんだ。
最近、コンサルタントとしての働き方を、そこまで言うと悪口なのでは?と思えるほどこきおろされて病んる頭で考えている。なにこれ、おれが繊細すぎるのか。
というか、スタッフをどうにかモチベートして、ちょっとでもプロジェクトに役立つようにサポートして動けるような、そんなマネージャーになりたいと思った。
どんなに忙しくても、組織で働く以上はそういう人間であるべきだし、組織でなくとも人との関係を築いていく上で、相手に傾聴して寄り添うことを大切にしたい。