りんごの木を植える。

高校の友だちが毎日更新してるので、ぼくも続けてみようと思います。

2019/08/06 信用。

今日も特に仕事のアウトプットはなく。ちょっとばかりの資料と、タスクを片付けて、定時だからと帰るよう促された。


尻を叩かれるように仕事場を出て、転がり出た先はコンクリートが底から蒸し返されたような熱気と茹だるような空気に包まれた広場。


休んでいた時には、一日一日が有意義で、無駄に過ごす時間さえ生きている感じがした。

いざ働き出すと、生きているとか死んでいるとか、そんな事はどうでもいい事になる。ただ職場で時間を過ぎるのを、たまに生まれるタスクと向き合いながら見送っていく。


本当は、人生について考えるなんてことは、贅沢なことなんだと思う。古代ギリシャでは、哲学することはある一定層以上の特権だったわけだし。そう考えると、ぼくらサラリーマンなどは特に、古代ギリシャで言うところの奴隷と同じで、社畜とはよく言ったものだ。それを再確認したのがマルクスであり、社会が行き詰まったときにその奴隷たちが革命を起こすなんて言ったわけだ。

まあ、資本主義が行き着くところまで行かないうちに、ロシアでは革命が起こったのだけど。


そうは言っても、色々と思い悩み考える時間は必要だ。贅沢と言われても、この奴隷状態から解放されること、特に価値の転換というか、そんなようなことのために。

要は、革命なんて社会に対して起こすものではなく、個々人でまず起こしてみろよ、ということなのだ。遮二無二働いて金を貯めて資本家層になる事は、難しくとも出来ないことではないさ。特に日本はそういう自由が与えられているとてつもなく恵まれた国だ。情報が欲しければ図書館に行けば、誰でもただで学べる。それもしないでやれ社畜だのやれ不自由だのと言っているのは、本当はそうある事に満足している層に違いない。


そんなことを考えていると、やはり自分を追い詰めることになるのだろうか。誰でも自由が欲しくて、それを獲得するための不自由さえ受け入れないんだよな。

おれは少しばかり不自由になってもいいから、やはり自由が欲しい。

そのためにも、自省して前を向かなくちゃいけない。