りんごの木を植える。

高校の友だちが毎日更新してるので、ぼくも続けてみようと思います。

2023/01/17【14】腹の脂肪と堕落と苛立ち

そろそろ出社するタイミングらしい

リモートにも飽きてきて、少しコミュニケーション不足に危機感もあるため、明日から出社しようかと。

ただし、フリーアドレスかつ座席予約が必要ということで、面倒くささが先立って予約できていない。

こういう事がオフィス回帰のモチベーションを下げてしまうのでは。

また、オフィス内でマスク着用がほぼ義務化していることも嫌になる。そういう人たちは死ぬまで一生マスクしていろと思う。

 

最近読んでいる本

さて、最近こちらの本を読んでいる。

 

現代文など高校受験以来に聞く単語だが、ふと考えるとまともな文章の読み方というものを知らず、またそんなものがあることすら知らないことに気づく。

なんというか、ただ文字面だけを追って、小説のなんとなくのストーリーや、論説文のふわっとした要旨を理解する程度の読み方しかできていない。

そのために仕事でも相手の言う日本語がすっと入ってこなかったり、また自分の書く文章があまりにも散文だったりするのではないか、と思い至って読むことにした。

 

また今年のブログを書き始めるにあたり、「きちんとした」「まとまりのある」「論理的な」「読み返しやすい」文章を書けるようになりたいと言う気持ちもあった。

 

構成としては、まず章ごとに身に付けるべき読み方とその要点があり、例文を読んで読み方の例を読む。次に演習問題に取り組み、例題と演習問題に取り組んで、実際にその章で身に付けるべき読み方を実践するという流れ。

また、大きな章立てとして、前半は小説の読み方、後半は論説文の読み方と分かれており、それぞれいくつかの章に分かれて文章の解釈方法を身につけられるというものだ。

 

まずは素直に本の最初から読み進めており、小説の読み進め方を学んでいる。

全く意識していなかったが、もとより出来ている読み方もあるが、それを改めて読み方として言語化されると膝を打つ思いだ。

たとえば主人公の人柄や人間関係、ストーリーの展開などがそうだ。

受験の時には問題として書いてあるから、否応でもその問いに答えるように読み返したりする。ただ、初めからこの本に書かれているような観点で読み進めていれば、より文章を能動的に読み進める事ができたと思う。

また趣味として読書する際にも、より本の中身を味わうことができるのではないかと思える。

良い本に出会えたと思う。

2023/01/16【13】神経痛と目疲れとデモチ

モチベーションが一気に下がった。読書も仕事も趣味も。

年始から割と高いモチベーションでやってきたが、年が明けて3週目でこの状態。

ただ、自覚ができているだけまだいいのだろう。

早めにシャワーを浴びて本を読んで、少し勉強してから寝よう。

まずはシャワー。

2023/01/15【12】偏頭痛と手持ち無沙汰と後悔

山手線の動画広告で気になったこと

山手線に乗っていて、動画広告を眺めていた。曜日や時間帯によって出す広告は異なると聞いたことがある。日曜の昼時、流れていたのは男性にも使えるという化粧水の宣伝だった。男性向けの化粧品はWEBで見たことはあったが、公共交通機関でも流れるようになったことに少し驚いた。こうして清潔感を求められるようになり、男にもメイクが浸透していくのだろうかとぼんやり思っていた。

そんな時にふと気になったのが、動画広告の中の一文だった。声の演出が記載してある。また次のシーンでは演奏に使っている楽器と演奏者の名前だ。

山手線の動画広告には音声はないから、本来この動画広告には音声がついていたことが推測される。それを電車内で流すことで、音声のない映像のみの広告となっているのだ。

どうせならこの一文も削除してしまえばいいのにと思いつつ、その程度のことでほぼ同じ映像作品を作ることのメリットはないなと思い直した。

広告と音声の関係で一つ思い出したことがある。

 

大阪の御堂筋線で聞いた音声広告

先月大阪に行った際、地下鉄の御堂筋線に乗った。

おそらく高校の時以来十数年ぶり利用したものの車両や利用方法については、特に東京メトロと大きな違いは変わりはなかったが、車内広告だけが少し違った。広告といっても紙媒体の広告ではなく、音声案内の広告だ。

東京メトロは音声というと、運行サービスについての案内に限られる。次の駅やその駅近辺の案内は自動音声だし、遅延情報やその他の案内は車掌がする。そして広告は紙の媒体や車内の装飾、モニターでの動画表示となる。

一方御堂筋線は、運行サービスの音声案内と紙媒体での広告は東京と同じようにあるが、それとは別に、音声広告というか宣伝があるのだ。例えば、東海道新幹線の車輌前方の電光掲示を読み上げているようなイメージだ。

その特徴が珍しく、少しの間連れと面白いねなどと会話をしていた。

広告の出し方も地域によってさまざまなのかも知れない。

 

新幹線と飛行機の広告

そういえば、新幹線には電光掲示以外の広告はない。それこそビジネス利用も多いのだから広告を出していいのではと思うが。また、それをいうと飛行機も同じように思う。だだし、飛行機の場合は機体全体に何かのコンテンツでラッピングし、内装の一部も統一された装飾をすることがある。ただ、個別の企業が何かの広告を掲載するということはなさそうだ。

もしかすると法令や規制で装飾ルールが決められているのかもしれない。

特に飛行機は航空法やテロ対策などで決まりがありそうだ。

などと考えていると、新幹線にも飛行機にも広告はあったことに気が付く。ただし、車輌内や機内の壁や手摺りではない。

座席前方に置いてある雑誌などの媒体だ。

あれらの雑誌は、サービスを利用しなくては読むことはできない。また乗車時間の長さやある程度のプライベートの確保が可能な分、じっくり読める媒体が適している。それらの媒体に広告を載せることで、車内や機内の広告を掲載せずにいる理由になりそうだ。

乗客が利用中の様子によっても、広告掲載の仕方は異なるのだろう。

2023/01/13【11】運動不足と切なさと優しさ

毎朝コーヒーを飲む。

豆を挽いて、ドリッパーを用意する。豆を入れる前に一度お湯でドリッパーをあたため、そのお湯を注いでカップも温める。

豆をドリッパーに入れて少なめにお湯を注ぎ、少し蒸らす。

それからまたお湯を注ぎ、あとは好みの量までコーヒーを淹れる。

そんな具合に淹れるから、今日の淹れたコーヒーは少し苦味が強く、香りもあまりよろしくなかった。

これは淹れ方が悪いからなのか、それとも豆が悪いのか。

豆の種類を見てみると、アラビカではないようだ。やはり豆が悪いのだ。そういうことにしておこう。

 

本格的にやるなら豆の量やお湯の温度、お湯の量まで計るという。

しかしそれは豆の種類にもよるし、極めるとすればその日そのときその場所の湿度や温度も大事だろう。

また水道水を煮沸させたお湯では満足できないかもしれない。豆の挽き具合や、手動で挽くか自動で挽くか、素材はどうか、というようなさまざまな因子を試して最適な淹れ方を調べる必要がある。

 

ただし、である。肝心の正解が分からないのだ。一定程度香りや味がしっかりしていれば美味しい。そうでなければ物足りない。その程度の違いしかわからない。

そうであれば、どうして最適な淹れ方を探し出せるというのか。

だから、ある程度まで淹れ方を決めて、あとは大雑把に淹れる。それが一番楽だし、その時々の味のブレも楽しめる。

もはやこの淹れ方こそが正しい淹れ方ではないか。

 

そんな風に自分を讃えつつ、思い出のマーニーを観てぐずぐずと泣いている金曜の夜。

 

ほんとに名作です。

2023/01/12【10】胸の痛みと焦りと迷い

ダンテ曰く、「地獄への道は善意で舗装されている」のだ。

 

文藝春秋100年記念号を読んでいる。

その中に小栗旬大河ドラマについてのインタビューと、京都大学の偉い先生による「日本の自殺」を読み直す、という寄稿があり読んでいた。

小栗旬のインタビューは、大河ドラマの主演を引き受けた経緯や撮影現場の雰囲気、役者同士の掛け合い、スタッフとのやり取りなど、鎌倉殿を楽しんだ人間にとっても温かい気持ちになる内容だった。

特に小栗旬が役にはいって行く様子や、役の感情機微を読み取るよう試行錯誤するなど、作品をより良くするために熟考している様子は印象的だった。

以前プロフェッショナルで小栗旬を取り上げていた際には番組プロデューサーとのやり取りが話題にもなった。また、敬愛するマネージャーとの死別にも触れられていた。

とても無邪気で素直そうに見える一方、内面複雑でさまざまな葛藤を抱え、人への敬意を忘れないような様は、益々魅力的に思えた。

そんな彼が一つの区切りとして、今後の活動を改めて見直したいというのは、素直に応援したい気持ちだ。

ぼくも負けないように必死に生きたい。

 

「日本の自殺」を読み直す、について。

「日本の自殺」とは、1975年に匿名の学者集団が文藝春秋に寄せた論考のことである。

時は高度成長の終焉や田中角栄の政界引退、石油ショックニクソンショックを経験した一つの時代の節目だ。そしてこれから日本にはバブルの熱気が今まさに渦巻こうとしているその時、日本の没落を預言したのがこの論考だった。

今では日本の衰退は自明のことであるが、その課題を総合的に見出せる人はいない。

少子高齢化や財政、対抗国の隆盛など個々の課題は挙げられても、その処方箋は個別最適に過ぎない。

これらに欠けている視点は、「文明論」である。

 

そこで「日本の自殺」は、これからの日本の没落を「ローマ帝国の衰退」に見出したという。それはローマ帝国の内部からの自壊に他ならない。豊かさと引き換えに伝統的共同体の解体と大衆社会化を誘因してモラルの低下とともに社会の沈下をもたらした。

「日本」はどうか。物質的な豊かさにより精神の自立を失い、欲望ばかりが肥大化した。また倫理的能力の衰弱と幼稚化をもたらした。さらに情報が人々の持つ思考力を奪う。そうした社会は共同体の解体と大衆社会化により、孤立した個人が集まる社会となっていく。

戦後民主主義についてもその一端を担う。画一的な教育で独断的非経験科学的、多元性を認めない全体主義的、権利ばかり求め責任と義務の放棄、建設的な提案のない、大衆迎合的なものという特徴をもつ。戦後民主主義はつまるところ、「擬似民主主義」だったと。

 

著者たちの示す教訓は以下だ。

①国民が狭い利己的な欲求の追求に没頭した時、経済社会は自壊する。

②国民は自分のことは自分で解決するという自立の精神を持たねばならない。福祉主義はそれを壊す。

③エリートが「精神の貴族主義」を失って大衆迎合に陥ったときに国は滅ぶ。

④年上の世代はいたずらに年下の世代にへつらってはいけない。

⑤人間の幸福は決して賃金の額や年金の多寡や、物量の豊富さによって計られるものではない。人間を物欲を満たす動物とみなすとき、欲望は際限なく膨らみ、人は常に不平不満にとりつかれる

 

「日本の自殺」は保守的自由主義の立場で書かれており左翼進歩派からは否定される内容だが、これをイデオロギーの産物と捉えてはならない。文明の歴史的な法則を論じたものである。

 

さて、今後の日本はどうか。

技術革新による復活は、マクロの需要喚起が期待できない限り起こり得ない。かつ国外に目をやると紛争やエネルギー、食糧危機、環境問題と混乱続きだが、それに対する処方箋は残念ながら日本は持ち得ない。

 

さらに言えば、戦後日本の復興を支えた日米同盟による平和、経済成長、平等社会の実現するレジームは、冷戦と共に崩れ去った。今や世界は新たな力の政治の時代となった。

 

そこへ来て国内の声は、せいぜい世界の趨勢に乗り遅れるな、とあうだけである。そしてその実態は対米従属を意味する。

日本の国家が何を目指すのかという国家像や自立した意思、国民的議論は見当たらない。

 

ではどうするのか。

日本は日本人にとっての幸福を改めて問う必要がある。それは日本人の「価値観」を問うことだ。それは対米従属などの借り物ではなく、内発的な価値観、つまり自然観、死生観、歴史観、人生観などから探り出すものだ。

この時代に来て改めて「日本の自殺」が現代日本に問う意味は大きい。

 

 

世界中が西洋近代文明の価値観に飲み込まれた今日、西洋文明自体が生命力や創造力を失いつつある。そしてはそれは現代文明の没落以外の何ものでもない。

日本の没落は日本単体の問題ではなく、現代のグローバル文明の没落とともにある。

 

東洋に位置しつつ西洋から多大の影響を受け、相当に独自の風土の元独自文化を作り上げてきた日本であれば、あるいは。

まさに特殊主義的特殊主義の追求こそが日本のなすべき方向なのかもしれない。

2023/01/11【9】眼精疲労と気怠さと高揚感

小室直樹氏の「日本人のための憲法原論」を読み終えた。なんと明快で痛快で厳しくも優しい本かと思った。 西洋近代史から現代日本に至るまでの歴史と、現代日本の抱える病理。そうして絶望的な状況であるにも関わらずぼくらを励ましてくれる。

同時に著者の存在感、憲法学だけではなく、歴史、宗教、経済、政治と幅広い教養と知識の積み重ねに圧倒された。そしてそれらを分かりやすく伝えることのできる懐深さと賢さに感服する。

 

繰り返し読みたい。読まなくてはならないと心から思う。ぼくら一人一人がどのように生きるのか。何を求めて、どう行動して行くのか。今本当に読むべき本に出会えた。あとは自分がどう生きるかだ。

 

2023/01/10【8】眼精疲労と不満と焦り

昨日は所用で世田谷の成人式会場近くにいた。

今年は少し特別な式だった。なにしろ今年の新成人は過去最多という事だ。というのも、成人年齢の引き下げで成人となる年齢の幅が広がり、移行措置により18歳から20歳までが新成人となったためだという。まあ、このニュースに何の意味があるか分からないが。

世田谷の成人式は毎年区役所で執り行われていたが、今年は区役所の建替えにより別の会場で行われた。

式に向かう新成人はみな大人びていて、おしゃれでカッコよく、なんだか頼もしく思えた。新成人の中には、成人式に行かなかった人や、行けなかった人もいたと思う。ただ、人生で幾つかある区切りのタイミングとして、この日を迎えられたことそのものを祝福できていれば幸いと思う。また、この日を迎えられなかった人たちもいたことを、心のどこかにとどめ置いてほしい。

 

自身の成人式を振り返ると記憶が定かではないが、仲の良かった知人との触れ合いが思い起こされる。特に中学の同窓会では変わらぬ人も変わらない人も、中学の時の雰囲気で触れ合うことができたことは、自分にとっての財産のひとつだ。

ただ、成人式の時には少し後ろめたい気持ちもあった。大学2年の時だから、既に単位のほとんどを落としていて四年での卒業は絶望的だったし、大学生活でとても孤独を感じていた時期でもあったと思う。

でも結局は人と触れ合うことで元気になったりするものなので、そういう後ろめたさと同時に楽しかった記憶が残っていることは、改めてありがたいことだ。

その時イメージしていた大学生活や就職活動とは全く違う結果になり、結局大学卒業には7年かかって、名も知らぬ中小企業に入社した。そこから紆余曲折あり今に至るわけだが、その時の自分には少しは自慢できるし、なにより絶望的な状況だった大学時代の自分には胸を張って伝えられる。君はよくやっているよと。

 

まだ人生を振り返るには早過ぎるし、知らないことだらけで偉そうになどできないが、こうして我が身を振り返ることができる楽しみも、成人後の人間にはあるのだと少し温かい気持ちになる

ちょっとは、明日からもがんばれそう。