りんごの木を植える。

高校の友だちが毎日更新してるので、ぼくも続けてみようと思います。

2020/01/19 12年前の、センター試験の後にがっかりしていた、僕自身に伝えたいこと。

私がセンター試験を受けてから12年が経った。この試験二日目は、何をしていたのかあまり記憶がない。

一日目同様二日目の結果も手応えはなく、一日目に得意の英語でさえ結果は散々だことが気持ちに尾を引いていた。


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通っていた高校は北海道内ではそれなりの進学校だった。受験結果も、終わってみれば学年全体的に、近年稀に見る出来の良さだった。

センター試験後は、授業や補修はあまりなく、ほとんど自分達で勉強するような雰囲気が漂っていた。

中でも地元の国公立を受ける生徒が多く、二次試験に向けて勉強している人が大半だった。


私は首都圏の国立大学を目指していた。センター試験足切りがあるから、最低限取らないといけない点数は頭にあった。たしか700点くらいだったと思う。

ただ、その点に行くか行かないかくらいだろうなーとは漠然と思っていた。


センター試験を終えて一晩たち、夜な夜な家族が寝静まった時間帯に一人、リビングで自己採点をしていた。得意の英語から手を付けたと思う。模試では常に九割取れていたし、まず気持ちを落ち着かせたいという思いだった。結果は八割五分くらいだった。四回くらい自己採点を繰り返した。当然のことだが、何度自己採点しても結果は変わらなかった。


愕然としたが、ああ、これが自分の限界なんだなとか、今までサボってきたからだなとか、なんでやらなかったんだろうとか、色々な思いが、浮かんでは消え、また浮かんでは消えた。


その後はあまり覚えていない。全ての自己採点を終え、点数を合計した。科目が一科目少ないのでは?とさえ思った。現実を見れば明らかだったが、この科目でもう少し取れたらよかった、とか薄っぺらい妄想をしながら、解答速報が載っていた新聞の上を何かを探すように目が迷い、上滑りしていった。

その時の気持ちはなんと表現していいかわからないが、心ここに在らず、であったとは言える。


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翌日学校に行くのが億劫で、たしか昼前くらいに顔を出したと思う。何をしていいのか分からなかったが、取り敢えず友だちに挨拶を交わしながら、職員室の担任の元に向かった。

ぼくには受ける大学がありません、というようなことを言ったと思う。担任からは、何言ってるんだお前はと笑われた。センター試験の点数、希望の学部や学びたいことを伝え、どうしたらいいか聞いた。今思えば、担任からしてもいい迷惑だろう。けれども担任は、点数を聞いても顔色ひとつ変えず、おお、じゃあちょっと探してみようか、と言って共用PCの前に連れていってくれた。

そこで実際に入る事になる大学を知る事になる。

恥ずかしい話、大学名は知っていたが全く意識したことがなかった。たしか英語の長文問題集で、一番最初に出てきた長文が、そこの大学の入試で使われた文章だった。1000文字ほどの長文で、あまり内容は覚えていない。そんなことしか印象にない大学だった。


藁にもすがる思いで進路指導室へ向かい、壁に並んだ赤本からその大学の名前を探した。大学が違うのだから当然だが、これまでやってきた事と違った対策が必要になることを知った。ただ幸いな事に試験科目は被っていて、なんとかなるような希望も持てた。

それからは過去問を中心に勉強していたと思う。残りの一ヶ月を気持ちの乗らないまま勉強して、最終的には合格することができた。正直言って、本当に運が良かったのだと思う。


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今日がセンター試験の二日目ということで、なんとなく自分にとってのセンター試験を振り返ってみた。思い通りにはならなかったし、行きたい大学にも挑戦さえできなかった。苦しい思い出に近い。そこから大学に入学し、なんとか卒業するまでの学生生活も、苦しい記憶が色濃く残っている。

それでも、無事に就職し、様々な経験をさせてもらえ、業界のリーディングカンパニーに入社してなんとこ食らいつこうとしているところだ。

上手くいったこともうまくできなかったことも、全てが今に繋がっている。そう感じている。だから、もっと頑張れば、もっといい環境に辿り着けるだろうという確信もある。

まだ人生も三分のニは残っている。

残りの人生の内五年から十年勉強して、また違うステージに行っても遅くはないし、またそこから広がる可能性もあろうと思う。


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今の仕事が辛くなれば辞めればいいし、また新しいことを始められる。

もう少しだけ、頑張ろうと思う。

ただ、12年前の私に伝えられることがあるとすれば、肩肘張らずにがんばれよ、ということだろうか。そんな言葉で、当時の私は納得してくれるだろうか。


まだまだ答えは出そうにない。