りんごの木を植える。

高校の友だちが毎日更新してるので、ぼくも続けてみようと思います。

2020/01/09 相変わらず脳みそが働いていない。

会議ひとつまともに予約できていない。

先のことを考えて動けていない。

決めるのを迷っている。

後回しにしてしまう。

結果、みんなに迷惑をかけている?

まだ迷惑にはなっていないものの、このままだと非常にまずい。


色々なことに対して躊躇している。

自分の出来なさを痛感している。

時間の使い方が下手すぎる。

計画性がなさすぎる。

自己評価が下がり続ける。


今日やろうとしていた上司への進捗報告を、ついに怠ってしまっている。まだ間に合う?連絡を取りたいものの取りづらい。

一度取れてしまえば、調子に乗れるが。


少しつまづいただけで、調子が狂う。あくまで自分のペースで出来ないと、とてつもなくストレスを感じるのだと思う。

そうしてやる気が削がれていく。


色々な気づきがあって嬉しい反面、気づきに対してどう行動したら良いのか、それが分からずに行動出来ず、改善できない。


決めたくないのか、考えたくないのか、やりたくないのか。


なんでこんな事に悩んでいるのか。

変えればいいのに、変えられずにいる。

自分を客観的に見ることができない。


新しい環境だから?まだ一ヶ月しか経っていないから?いや、もっとやれるはずだし、もっと成長できるはず。こういう期待が、自分を追い詰めているのか?


逃げたければ逃げてもいい、というのは、言う方は勝手だが、言われた方からみればたまったものではない。


やりたかったかったこと、なりたかったもの、得たかったもの。それらをどうにか手にして、苦労して手にして、せっかく手にしたものを捨てろと言われるのは、たまったものではない。

かといって、そこに固執して埋没コストになることも良いことではない。

合理的に行動できれば、感情を排して決められればいいのに。でもそれでは自分の色が出せない。

いや、自分の色ってなんだ?


論理的であることは、あまり価値はないと思う。もちろんコミュニケーションや意思決定には、大切なもののひとつだと思うが。


けれど、合理的であると言うことは、ある意味でその人の価値観に左右される。

それは、組織にとっての合理的であることと、個人にとっての合理的であることがそれぞれ違う事からも明らかだ。

何をもって合理的と言うのか、それは、何にとって合理的なのか、と言う事に等しい。


そして、個人にとっての合理性とは、その人個人の価値観に則った形でしか現れない。

さらに言えば、合理的な行動を取らないと言うのは、個人の合理的な判断と、組織の合理的判断が異なっているからだと思う。

そうであるなら、決められないと言うこともその表れのうちの1つではないだろうか。

まずはその違いを知ること。そして、落とし所を見つけることが大切なんだろう。